ハルメク編集部が見た、日野原重明先生~前編~

日野原重明先生と17年間続いた連載「生きかた上手」

雑誌「ハルメク」

2017年7月18日、日野原重明先生が105歳で亡くなられました。連載が始まった2000年頃、50代からの女性が思い切り生きられる雰囲気ではありませんでした。毎月の連載の中で日野原先生が示してくれる「生きかた」は私たちの指針になったのです。

日野原重明先生
    「おしゃれも、よい生活習慣の一つ」ピンクのジャケットがお似合いです。2016年3月ご自宅で撮影   
【目次】
  1. 「高名な医師」から「導き手」になった日野原重明先生
  2. 中高年の星、そして平和の語り手
  3. 94歳・臨床医の文化勲章
  4. 100歳の年は激動の一年
  5. 未知の世界へ

「高名な医師」から「導き手」になった日野原重明先生

 

日野原先生が本格的に登場した「いきいき」2000年3月号。この2か月後に連載が開始



「『いきいき』なんて耳慣れない雑誌名だけど、なかなかいいネーミングだと思って」、
と日野原先生。そして連載が始まりました。

「いきいき」(ハルメクの旧名)で連載「生きかた上手(当初は「生きかた上手のコツ」)」が始まった2000年当時、日野原先生は88歳でした。人間ドックを日本に定着させたり、生活習慣を変えることでさまざまな病気を予防できることを浸透させたりといった数々の功績に加え、80歳で聖路加国際病院の院長に就任したこともあり、すでに医療界では名高い存在でした。

その頃は、高齢社会といわれながらも、まだまだ「60歳定年」の時代。50代、60代が今ほど活躍できる社会ではありませんでした。そんな中で、日野原先生は医師という枠組みを超えて「人はいくつになっても生きかたを変えることができます」と高らかに声をあげ、「いくつになっても創(はじ)めることを忘れなければ若くいられる」と、中高年にエールを送りました。

そんな先生の言葉がちりばめられた連載は、スタート直後から読者の大反響を呼びました。1年分の連載をまとめた書籍『生きかた上手』は、発売後すぐに編集部も驚くほどの愛読者カードが届きました。幼い娘を亡くした人、病に冒された人、仕事のやりがいに悩む人……。

この本は120万部のベストセラーとなり、日野原先生は中高年だけでなく、老若男女にとってよりよい生きかたの道を示す導き手のような存在となったのです。

 

1日1300kcalを守る健康のための食生活は有名。朝食は3種類の飲み物

 

昼食は牛乳とクッキー。夕食は自由でお肉も大好物

中高年の星、そして平和の語り手

 

地方での講演会の前後には、近隣の小学校へ「いのちの授業」をしにいくのが恒例でした

 

その頃「いきいき」が全国各地で主催した日野原先生の講演会は、どこへ行っても満席。講演後には先生のサインを求める人たちで長蛇の列ができ、マスメディアは「日野原先生は中高年の星」と評するようになりました。講演はいつも2時間程度。笑わせたり感動を誘ったり、その話術は実に巧み。これは何歳になっても変わらない先生の特技でした。

講演会では読者のみなさんが、質問コーナーや講演後のサイン会などで、自分たちの活動や意見を先生に伝える姿がよく見られました。「『いきいき』の読者は何か違いますね。共に生きている、という感じがします」と話し、読者世代の活躍ぶりをうれしそうに見守る先生でしたが、同時に先生が期待をかけていたのは、ずっと若い10歳の子どもたちでした。

戦争を30代で経験した先生は、徹底的な平和主義者でした。日本がどんどん平和国家から遠ざかっていることに早くから危機感を抱き、全国の小学校を訪れ、10歳の子どもたちに「いのちとは、自分たちが使える時間のこと」「いじめられてもゆるすこと」を教えたのです。子どもたちに鮮烈な記憶を残すことが、将来、平和を望む大人をつくる基礎になる――それが先生の終生変わらない考えでした。

94歳・臨床医の文化勲章

 

人間ドックや予防医学を定着させ、看護師の地位向上に尽力したことなどが称えられ文化勲章を受章。奥様と


先生がこっそり「文化勲章の内示をいただいたんですよ」と教えてくれたのは、2005年9月、残暑厳しい日のことでした。文化勲章といえばノーベル賞受賞者や科学・芸術などの文化の発展に貢献した人たちに授与されるもの。「でも医学関係の研究者の受章者は少ないんです。しかも研究者ではなく、私のような臨床医に与えられるのは珍しいことだと思いますよ」と誇らしげに話してくれました。

親授式が行われた11月3日は快晴。銀座英國屋であつらえたモーニングに身を包んで皇居へと向かいました。その日編集部は、日野原先生に密着取材をしたのですが、親授式が終わった後、先生は聖路加国際病院へ。勲章を見せたい入院中の患者さんがいたそうです。車の中でその方にいただいたネクタイに結び替え、病室へと向かう姿は、どんなときでも患者さんに寄り添う「医師・日野原」であることを示しているようでした。

100歳の年は激動の一年

それから6年経った11年3月11日。病院の理事長室で一人仕事をしていた先生は揺れを感じヘルメットをかぶり机の下で揺れが収まるのを待ったといいます。

11歳で関東大震災、33歳で東京大空襲、83歳では地下鉄サリン事件と大規模な災害や事件を体験してきた先生は、この未曾有の災害を見過ごすことができませんでした。「いきいき」5月号には「みなさんで、被災地の復興に向けて、力を合わせ、支え合っていきましょう」というメッセージを寄せ、5月初旬には南三陸町を訪問。被災した人たちを慰問して回りました。震災の爪痕に驚きながらも、「女性たちの目が輝いていましたね。これなら大丈夫ですよ」と、同行した編集部員につぶやいていました。
 

2011年5月初旬、宮城県南三陸町の避難所へお見舞いに。9時36分東京発のはやぶさで仙台へ。
「南三陸町の惨状は衝撃でしたが、避難所で出会った女性たちのパワフルさに励まされました」と

 

日野原先生が100歳の誕生日を迎えたのは震災の7か月後。
「私にとって100歳は通過点です」と言って詠んだ句が、「百歳は ゴールではなく 関所だよ」


 

未知の世界へ

先生の妻・静子さんが亡くなったのは、101歳の初夏。40代で取得した自動車免許で先生を毎日送り迎えし、夜中も口述筆記を行い、先生を支えてきた静子さんでしたが、10年ほど前から認知力が徐々に低下。それでも先生と二人、穏やかな日々を過ごしていました。亡くなる1年9か月前、気胸で酸欠状態になり、聖路加国際病院に入院しそのまま入院生活を送ることに。先生は仕事の合間をみては静子さんの病室を訪れていました。

晩年の妻・静子さんを病室に見舞う日野原先生。「ママ、パパですよ」と声を掛けます


静子さんが亡くなられても先生は平常通りのご様子で、取材に伺っても、普段と変わらない笑顔とチャーミングな話しぶり。なんと気丈な――と思って、一度だけ、どんな思いでいらっしゃるのかをインタビューしたところ、「古い友人が、『天は一人を増しぬ』という美しい詩があることを教えてくれました。地上からは一人減ったけれども、天上には一人増えて賑やかになったという詩。それを読んで、僕は心から慰められたんです」と。この言葉は14年1月号に掲載されました。

翌年、102歳の日野原先生はイギリス出張で体調を崩し、「大動脈弁閉鎖不全症」であることが判明。心臓に負担をかけないように、車いすの生活に入りました。

「小さな円を描いて満足するより、大きな円の、その一部分である弧となれ」とは先生が大事にしていたブラウニングの言葉です。小さな目標ではなく、大きな、自分以外の人をも巻き込むような大きなビジョンを持ちたいものだ、と常日頃話していました。その言葉通り、医療や平和に関わる多くの偉大な事業に関わってきた先生ですが、徐々に後任に託し、自宅で仕事をされることが多くなりました。

この3月には体調を崩し聖路加国際病院へ入院。一時は口から食事をとることも困難になったといいます。その後、自宅に戻ってからは少し回復され、お話しできるようになりましたが、「生きかた上手」も以前より短いものになりました。

最後にお目にかかったのは梅雨の前。居間で待っていると、車いすの先生が正岡子規の『病牀六尺』を手に現れました。本について伺うと「子規は、最期の自分の様子までは書いていないんですよ。その書かれていない部分を、これから私が体験するんです」と目を細めるのでした。

そのとき庭のアジサイはまだ薄い緑色。

「このアジサイが青く色づいてゆくのを私は楽しみに見ているんですよ」。先生が亡くなられたのは、アジサイが盛りを過ぎ、梅雨が終わりを告げる頃でした。

 

日野原重明先生の105年
※年号に付した年齢はいずれも同年1月時点

1911 [明治44]年 10月4日山口県に6人きょうだいの次男として誕生
1921 [大正10]年  9歳 急性腎炎を病み、3か月間休学
1924 [大正13]年 12歳 関西学院中学部に入学
1929 [昭和 4] 年 17歳 第三高等学校(理甲)に入学
1932 [昭和 7] 年 20歳 京都帝国大学医学部に入学
1933 [昭和 8] 年 21歳 3月、急性結核性肋膜炎で8か月絶対安静となり、1年間休学
1937 [昭和12]年 25歳 京都帝国大学医学部卒業
1941 [昭和16]年 29歳 9月、東京・築地の聖路加国際病院に内科医員として赴任
1942 [昭和17]年 30歳 同じ教会会員だった二見静子と結婚。終戦後、3人の男児誕生
1951 [昭和26]年 39歳 9月から米国エモリー大学内科に1年間留学
1952 [昭和27]年 40歳 9月帰国
1970 [昭和45]年 58歳 3月、よど号ハイジャックに遭遇
1973 [昭和48]年 61歳 財団法人ライフ・プランニング・センターを創設
1977 [昭和52]年 65歳 聖路加国際病院を定年退職。『中央公論』12月号誌上で「成人病」を「習慣病」と改称することを提唱
1992 [平成 4] 年 80歳  聖路加国際病院院長にボランティアとして就任(〜1996年)
1998 [平成10]年 86歳  東京都名誉都民
1999 [平成11]年 87歳  文化功労者
2000 [平成12]年 88歳 「新老人の会」結成。『葉っぱのフレディ』をミュージカルに脚色
2001 [平成13]年 89歳 『生きかた上手』出版。シリーズ累計200万部のミリオンセラーに
2005 [平成17]年 93歳  文化勲章受章
2007 [平成19]年 95歳  日本ユニセフ協会の大使に
2013 [平成25]年101歳  アルベルト・シュバイツァー章受章。5月、妻・静子逝去
2014 [平成26]年102歳  大動脈弁閉鎖不全症が見つかる
2017 [平成29]年105歳 7月18日、自宅にて逝去

 

2013年9月、聖路加国際病院の理事長室前で。102歳になる直前に記念撮影を。

 

構成・文=岡島文乃(ハルメク編集部)撮影=中西裕人

※この記事は、「ハルメク」2017年9月号に掲載された『追悼日野原重明先生 連載「生きかた上手」17年間、ありがとうございました』を再編集し、掲載しています。

 

生きかたに悩むすべての人に。 あの名著の大改訂版。

『生きかた上手 新訂版』日野原重明著 発売中。

2001年に日野原重明先生の90歳を記念して出版された『生きかた上手』。
生きかたに悩むすべての世代の人々のバイブル的存在として圧倒的な支持を得た、あの名著がよみがえりました。
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あのころはまだ読む気になれなかった――という方にこそぜひ読んでいただきたい1冊です。

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