つらく苦しいことは、いつかは翻るもの

書家・金澤翔子さんの母 金澤泰子さんインタビュー

雑誌「ハルメク」

金澤泰子さん(74歳)は、ダウン症の娘と二人三脚で「書」の道を歩み、書家・金澤翔子を育て上げました。娘が独り立ちをした今、「最後の大仕事がある」と言います。

ダウン症の書家・金澤翔子さんの母 金澤泰子さん
【目次】
  1. 翔子はどこへ行っても幸せなんだ
  2. 翔子の書を誰よりも認めていた、亡き夫
  3. ダウン症と知らされ、母娘で命を絶つことも考えた
  4. 最後の大仕事は、自分の亡き後の我が子の行く末を守ること

翔子はどこへ行っても幸せなんだ

「翔子が書くような大作には墨汁ですが、自分用には墨をすります」

墨を含んだ筆が半紙に下ろされ、ぐい、ぐいと動いてゆきます。

「やっぱり翔子の字の方がいいね」

自分の書を眺める金澤泰子さん。ダウン症の書家・翔子さんの母であり、自身も柳田流の楷書の特師範の位にあります。楷書は一画一画を明瞭に書くもの。柳田流は楷書を極めた流派で、その書のルーツは唐の時代の書家・欧陽詢(おうようじゅん)の字にさかのぼるといいます。「欧陽詢の字は本当に美しい。線の角度、長さ、すべてが一文字をいかに大きく美しく見せるかの工夫に満ちています」

書について語り出すと止まらない泰子さん、書との出合いは小学校4年生のときでした。学校の課題で書いた習字が、県の大きな賞を受賞したことで「私は書で生きていく」と直感的に決心したそうです。学生時代には和歌を詠み能に傾倒するなど多彩な日々を過ごし、本格的に書を学ぼうと柳田流の家元・柳田泰雲(たいうん)についたのは結婚してから。「夫は多忙でしたからね。帰りの遅い彼を毎晩夜叉のように待つのが嫌で(笑)、書道に夢中になれてよかった。暇さえあれば書いてました。法華経、観音経……楽しかった」

書のテーマは漢詩であることが多いのですが、泰子さんはお経を好んで書きます。二千年来、無数の人々のよりどころとなってきたお経は、難解であっても、毎日書くうちに、その意味やありがたみを感じ取れたといいます。

ある日の講演会の様子。まず翔子さんの席上揮毫から。この日書いたのは「共に生きる」


天衣無縫な書で知られる娘の翔子さんも端正な楷書を書きます。その書の基礎は、10歳のときに書き続けさせた般若心経にあると言います。

「当時私は常に、娘をダウン症に産んだことに負い目を感じていましたから、翔子が4年生に上がる際、それまで通っていた小学校から『普通学級ではもう預かれません』と言われたときには、社会から全否定されたように苦しかった。翔子と家に引きこもり、奇跡を待ちわびるような思いで般若心経に取り組みました」

楷書の美しさを追求する泰子さんは、翔子さんの筆の運び一つ一つを厳しく指導しました。276文字の般若心経を10組。半年にわたる母娘の修業の日々でした。やがてほとぼりも冷め、支援学級のある学校へ通い始めた翔子さんを見て泰子さんは愕然とします。

「翔子がダウン症であることに苦しんでいたのは私だけだったと気付いたんです。翔子はどこへ行っても幸せ。そして周りの人が笑顔になることだけを一生懸命に考えて行動する――翔子が泣きながら般若心経を書き続けたのも私を喜ばせたい一心だったんです」

翔子の書を誰よりも認めていた、亡き夫

 

これまでの地方出張の回数は1000回超。どこも満員御礼。九州出張の翌日に北海道に行くことも

二人のスケジュールは月の半分以上が講演会や取材、席上揮毫(きごう)で埋まっています。この過密スケジュールが始まったのは12年前、翔子さんが20歳のときから。高校を卒業した翔子さんは、障がい者のための作業所へ就職する予定でした。その前に一度でいいから、と開いた書の個展がきっかけでした。

「翔子の書を誰よりも認めていたのは夫でした。その夫は翔子が14歳のときに私たちの目の前で心筋梗塞で他界したので、いつか翔子の書をたくさんの方に披露したいというのは、私たち夫婦の念願でもあったのです」

大奮発して銀座の著名な画廊で開いた個展にマスコミが注目し、二人の元には次々と個展や講演会の依頼が舞い込むようになりました。そしてそれは今もひっきりなしに続いています。

講演三昧の日々に嫌気がさし、もうやめたいと思うこともあったそうですが、あるとき友人に「古希も過ぎたんだからいい加減、講演だのテレビ出演だのをやめてゆっくりしたら?」と提案され、「ゆっくりして何をするの?」と聞き返したら「温泉地で骨休めとか」という返事。

「なあんだ、と思いましてね。それなら、私はこの仕事を続ける方がいいと思って。翔子の書や私の話で『励まされた』と明るい表情になる方々を目の当たりにするのですから、こんなにいい仕事はありません。それからはどんな仕事の依頼でも喜んで受けられるようになりました」

ダウン症と知らされ、母娘で命を絶つことも考えた

 

講演会の直前でも二人はリラックス。翔子さんはこの後マイケル・ジャクソンの物まねも披露

翔子さんは、泰子さんが41歳のときにやっと授かった一人娘です。趣味を謳歌し順風満帆の人生を歩んできた泰子さんは、出産後45日目に娘がダウン症であることを医師に知らされました。当時は今ほど障がい児への理解はなく、また婚家が学歴を重んじる一家であったこともあり、申し訳なさのあまり母娘で命を絶つことも考えたといいます。

「そこまで思いつめた私を救ってくれたのは、この子を誇りを持って育てようと言ってくれた夫と、私の苦しみに敏感に反応し、いつも癒やそうとするかのように優しく寄り添う翔子自身でした」

 

2か月ぶりに翔子さん宅を訪問。ジムへ行くところでした
スマホで翔子さんとビデオ通話。「話す時間が長くなりました」

翔子さんは現在、「30歳になったら一人暮らしをする」という長年の誓いを果たし、泰子さん宅から徒歩10分ほどのマンションで一人暮らしを満喫中。

「絶対に一人暮らしなんてできないと私は思っていたのですが、もう2年半。ここまで見事に独り立ちするなんて……。今は、書を書くときは我が家に来ますが、帰ってくるというより、出勤している感じ。昨日もある神社から依頼された祝詞を1枚書き上げたら、すぐに自分のマンションに帰ってしまいました」

そう話す泰子さんは実に穏やかで、独り立ちした娘を誇りに思う気持ちが内面から輝いているようです。

最後の大仕事は、自分の亡き後の我が子の行く末を守ること

 


今苦しい人たちにも、大丈夫、いつかはその苦しみが翻る日が来ると言ってあげたい――そう思うからこそ、講演の仕事もやめられないと言います。そして、泰子さんには成し遂げなければならない最後の大仕事があります。それは、自分の亡き後の我が子の行く末を守ること。

翔子さんは料理も掃除もお手の物、日々の買い物もお店の人に手伝ってもらいながらこなしますが、お金の管理はできません。財産の管理や、書の仕事のサポート……そうした、これまで泰子さんが行ってきたことが、自分の亡き後も滞りなく進むような仕組みを作ることに、着手し始めたそうです。「これを成し遂げないことには死ねませんね」

泰子さんは一度だけ翔子さんに「ダウン症って何のことか知ってる?」と聞いたことがあります。翔子さんの答えは「書がうまい人のことかな?」。

「そのくらい、翔子はダウン症であることにも、何ものにもとらわれていません。これほど幸福なことはありませんよ。学歴だのお金だのに縛られていては見えてこない、本当の価値観の中で翔子は生きています。それは周りに幸せになってほしいという純粋な思いなのだと思います。だから私の書では誰も感動しないけれど、翔子の書には誰もが心を揺さぶられるんでしょうね」

久しぶりに持ったという筆を置きながら、泰子さんは「この最後の仕事が終わったら、自分のためにお経を書いてみたくなりましたね」とつぶやきました。

 

■娘・金澤翔子さんのインタビュー記事はこちら!
書家・金澤翔子さんの念願のひとり暮らし


かなざわ・やすこ
1943(昭和18)年、千葉県生まれ。62年、明治大学入学。在学中に歌人馬場あき子に師事。書家の柳田泰雲・泰山に師事。90年、東京・大田区に「久が原書道教室」を開設。娘・翔子さんの席上揮毫のサポート、講演、執筆活動を行う。東京藝術大学評議員。『お母様 大好き』(ハルメク刊)は翔子さんの書だけでなく、二人の足跡もよくわかるエピソード付き。

取材・文=岡島文乃(ハルメク編集部) 撮影=キッチンミノル

※この記事は「ハルメク」2018年4月号の内容を再編集しています。

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