患者と医師の「死に方修行」対談

【アーカイブ】永六輔×内藤いづみ 理想の大往生とは

雑誌「ハルメク」

「終活」という言葉が知名度を持つはるか前、1994年に上梓された『大往生』がベストセラーとなった永六輔さん(2016年逝去)。永さんは生前、自身の最期をどうイメージしていたのか。親交の深かった医師・内藤いづみさんとの対談で語っています。

永六輔×内藤いづみ対談
【目次】
  1. 「僕はパーキンソン病のキーパーソン」
  2. 人間はいつか死ぬ。わかっていてもうろたえた妻の死
  3. 小沢昭一さんに伝えたかったこと
  4. 「死んでみせる」という最後の大仕事

「僕はパーキンソン病のキーパーソン」

※この対談は、2013年9月号「いきいき」(現「ハルメク」)に掲載した記事を再編集しています。

2010年、パーキンソン病と診断され、前立腺がんであることも公表している永さん。一方、在宅ホスピス医の内藤さんはこの日、過労によるダウンから復活したばかり。そんなおふたりの体調の話から始まりました。
 

永六輔さん


  もう体調は大丈夫?

内藤 はい。やっぱり病院は頼りになりますね(笑)。病気になった人の気持ちがよくわかりました。

  はははは! 「病気になってもいいけれど、病人にはならないように」って言った医者がいたの。いいこと言うなって思ったな。

内藤 永さんは調子はどうですか?

  パーキンソン病の影響で、体のほうは辛いですね。転びやすくなったし、同じ姿勢でずっとはいられないの。でも、僕も歳だからね。病気だけではなくて、加齢の影響もあると思います。

内藤 パーキンソン病の患者さんにとって永さんは希望の星のようですね。

  僕はパーキンソン病のキーパーソンだから(笑)。この病気は完治することはないから薬で進行を抑えて、ラジオの仕事もできているんです。
 

内藤いづみさん


内藤 パーキンソン病で幻覚が出ることがありますけど、永さんはその幻覚ともうまく折り合いをつけていますね。

  幻覚は薬の影響もあるんです。骨折で入院したときに渥美清さんや(坂本)九ちゃん、女房とか亡くなった人が僕のベッドを囲んでいたんです。病院の廊下を演説して歩いたこともあったようで。

内藤 骨折のショックもあったんでしょうね。でも、草葉の陰にいるみなさんと再会できたんですね。

  今の時期、盆踊りをしますよね。盆踊りはあの世とこの世をつなぐ場所なんですよ。盆踊りは本来、暗い中でかさを深くかぶって顔を隠して踊るんです。そうすると、姿が亡くなった家族とか好きだった人とかに似て見えて、会いたかった人に会える、再会できるわけです。

内藤 盆踊りは再会の場ですか。私はちょっと怖がりなんですが、今年は永さんと盆踊りに行ってみようかしら。永さんと初めてお会いしたのが20年前。当時の永さんは「死んでも病院なんか行くもんか」って感じでしたよね。

  僕はこうやって病気になって世話になるまで、医者が大嫌いだった(笑)。でもね、内藤さんは僕が今まで思っていた医者と違った。在宅で看取りをやっている女医さんに初めて出会ったんだけど、大変な苦労を抱えているだろうに、明るい笑顔で一生懸命がんばっていて。

内藤 永さんは日本で最初に在宅ホスピスに関心をもって勉強してくださった方のおひとりで。お父様を病院で看取ったことがきっかけでしたよね。

人間はいつか死ぬ。わかっていてもうろたえた妻の死

永  父は入院していて、「家に帰りたい」って言っていたんです。父の最期、僕らは病院のモニターを見ていただけ。その最期に疑問を持ったし、それを見た母は「私は家で死にたい」と言ったんですよ。

内藤 私が医師になりたての頃は、お父様のようなケースが一般的でした。病院生活を「誰かの鳥かごの中で遠慮し
て暮らしている小鳥のようだ」と言った患者さんがいました。それが往診になるとこちらがお邪魔する立場になるので、患者さんが主人公なんだとはっきりするんです。

  僕は病院で亡くなっていく父がかわいそうで、母は本人の希望どおり家で看取ろうと決めたんです。母は明治生まれの人間で、「死装束はこれで」と手甲まで全部自分で縫って、家族全員に手紙も書いてあったんです。最期は老衰でしたが、希望どおり自宅で、穏やかに僕の腕の中で息を引き取ったんです。その姿を女房はそばで見ていました。

永さんの奥様・昌子さんは、2001年6月、末期の胃がんと診断され、永さんは「余命2、3か月」と告知されました。同年11月から、68歳で亡くなるまでの3か月間、昌子さんの希望で自宅看護が行われました。
 

永六輔さんと奥様の昌子さん
奥様の昌子さんは、新珠美千代さんと間違えられてサインを求められ、
そのままサインをしてしまったという逸話もあるほど、美しくユーモアのある方でした(永さん提供)


  僕は寺の子でしょう。戦時中は空襲で焼けた遺体は見ていたし、葬式前の棺のない遺体のそばで寝たこともあった。だから「人間はいつか死ぬ」なんて子どもの頃から嫌っていうほどわかっていたんです。でもね、さすがに妻のことではうろたえましたよ。心労で僕は見事に15kgやせましたね。

内藤 あのとき、永さんがどんどんやせていくから、みんな永さんががんなんじゃないかと心配していたんです。

永  女房には理想とする最期があって、それが僕の母の最期だったんですね。「私もあんな死に方をしたい」と言って在宅看護を希望して。ふたりの娘もそれを支えようとしてくれた。だったら父親がおろおろするのはみっともないと、僕も決心しました。

内藤 自宅で命と向き合うには、やはりご家族にも覚悟と事前学習が必要だと思います。永さんがこれまでホスピスケアについて学んでいらしたのは奥様のこのためだったのかと、私は思いましたね。

  父親の仕事で北京育ちの女房は、引き揚げのときにそれはひどい体験をしてきた。だから肝がすわっているのか、見事に死への覚悟ができていました。「お義母(かあ)さんのように死装束のきものが縫えないのが悔しいから、今から習う」って言って。それは間に合いませんでしたが、すばらしい訪問医と開業ナースの支えのおかげで、家族と一緒に本当に穏やかに最期の時間を過ごしました。

内藤 ふたりのお嬢さんが看護を担当して、永さんは?

  僕は笑い話担当。女房に「毎日必ず笑わせて」と言われたんですよ。日常のおかしな話をするんだけど、そう毎日は続かないの。だから「おもしろい話だったら、2回していいか」って聞いて(笑)。

内藤 何回もされたのはどんなお話だったんですか?

 (黒柳)徹子の話。回転寿司屋に一緒に行って、彼女の目の前に、横に座っているおじさんのお皿が積んであった。そしたら、彼女は「かわいいお皿! はい、永さん」と言って配り始めたの。おじさんが「私のです」と言うと、彼女は「お店のでしょう」、またおじさんが「お店のですが、私のです」って……(笑)。

内藤 おかしい! それは奥様も笑ったでしょう。

  もうひっくり返って笑って。だから何度も何度も同じ話をして、何度も何度も笑うから、それが悲しくって泣きましたよ。女房は「がんで死ぬんじゃない、寿命で死ぬんだ」と言っていましたね。最期は彼女の望みどおり大好きなソファで娘たちに抱かれて息を引き取りました。

内藤 奥様を家で看取ったことには、後悔はないですね。

  ないです。その後ね、瀬戸内寂聴さんに「あんたもすぐに死んだほうがいい」と言われたんです。「今なら奥さんにほれていたんだなって世間が思う。死ぬなら今だ」って(笑)。

内藤 でも、あれから10年経ちましたね。

永  もう大丈夫です。僕は仕事上旅が多かったから、女房が生きていた頃は旅先から家にはがきを出していたんです。今でもそれは習慣として続けていますよ。もちろん、女房はもういないわけだけど。

永六輔さんと妻・昌子さん
誕生日に昌子さんが欲しがったゴールデンゲートブリッジの前で。
こうやって永さんは毎年昌子さんに世界にひとつだけのプレゼントを贈り続けました。​​​​​
「女房に戒名はなくて『昌子』のまま。僕も『六輔』のままで堂々と閻魔様の前に行きますよ」(永さん提供)

小沢昭一さんに伝えたかったこと

内藤さん27歳の頃。大学病院に勤務していた当時、患者への告知のあり方や、
末期がん患者へのケアについて疑問を抱いていました(撮影=中川道夫)

内藤 患者さんを見ていて、どんな状態になっても、生まれるときにもっていた命の強さって旅立つまで変わらないものだなって実感しています。

5日間昏睡状態だった男性患者さんは、ご家族からワインを含んだガーゼで口をぬぐわれたら意識が戻って、「川のほとりまで行ったけど、酒を1杯飲んだら目が覚めた」って言うんです(笑)。そんなこともあるんです。私は、命って「生きたい」って死ぬ瞬間まで叫び続けているエネルギーじゃないかなと思うんです。

  僕は最近だと、小沢昭一さん(2012年12月、前立腺がんで死去)が亡くなったことが相当に響いているんです。同じ病気同士だったし。小沢さんはヘビースモーカーだったんですよ。病院の中は禁煙でしょう? 小沢さん、「タバコが吸いたい、タバコが吸いたい」と言って亡くなっていったんです。

内藤 ホスピスはタバコがOKなところが多いですが、一般病棟ではそれが難しい。でも、私は最期ぐらい好きなだけタバコを吸わせてあげたらいいのに、と思うんです。

  亡くなるときはその人がしたかったことをさせてあげて未練を残さないようにしないといけないと思ったな。小沢さんには「病院とけんかしてでもタバコを吸いなさい」と、僕が言うべきだったよね。

内藤 未練を残さないようにという意味では、最期をどう過ごしたいかを元気なうちから考えておくことが大事です。

  亡くなってからお葬式をどうするかもね。僕は葬儀委員長をやったことが何度かあるんです。作曲家の三木鶏郎さんには、生前に「必ず賛美歌で送ってくれ」と言われていたの。でも亡くなったあとに親戚がお坊さんの手配をしていて。

内藤 どうしたんですか。

  お経が読み上げられている斎場の外で聖歌隊が賛美歌を歌ったの(笑)。

内藤 中でお経、外で賛美歌! それはすごい(笑)

  ターキー(水の江滝子さん)の生前葬もやりました。どんな人がお別れに来るのか知りたいから生前葬をやりたいって彼女が言って。あれはよかったですね。さる有名ホテルに「水の江滝子さんのパーティーをやる」とだけ言って部屋を借りたんです。そしたらお線香のにおいがホテル中に広がっちゃって、ホテルの人に怒られて(笑)。

内藤 水の江さんの「まだ元気なうちにお葬式をやろう」という決意はすごい。

  三船敏郎さんや、森繁久彌さんとかいい男たちも参列して。在日韓国人もたくさん参列しました。彼女はずっと彼らのバックアップをしていたことが生前葬で初めてわかった。その人がどんな人生を歩んできたのかがわかって、「生前葬もいいな」と思いましたよ。

内藤 お葬式はドラマですよね。私の小さい頃は自宅で通夜も葬儀も行われていました。土葬でしたからお墓に行くと骨が掘った穴からのぞいている、なんてこともありましたね。

  土葬は穴を掘って、そこに遺体を埋葬しますね。遺体のぶんだけ土が盛り上がって、それが何年かすると、すとんと落ち込み、平らに戻る。あの土に還っていく感じがいいなあと思っていて。僕は土葬に憧れています。

内藤いづみさん
在宅ホスピスの道を歩んで約30年。今もバッグひとつで自転車で往診することもしばしばです(内藤さん提供)

「死んでみせる」という最後の大仕事

永さんと内藤さんが続けた「いのちの旅」。対談では医療のみならず政治、教育などさまざまな切り口からいのちを見つめました(2012年4月、甲府市。内藤さん提供)
永さんと内藤さんが続けてきた対談イベント「いのちの旅」。
医療のみならず政治、教育などさまざまな切り口からいのちを見つめてきました(2012年4月、甲府市。内藤さん提供)

内藤 こういう話を明るく語れるようにならないとだめですね。死なない人はいないんだし、死も生きていることの一部ですから。死を考えると、どう生きたいかが見えてきますよね。

  僕はね、死ぬことは怖くないんです。痛いのや苦しいのは嫌だけど、にっこり笑って死ぬならいい。

内藤 にっこり笑って死ぬためには、がんの場合はいい医師を見つけておくことです。

永  いいお医者さんにめぐり会うには、何人にも会うこと。ひとりの医者しか知らないのと何人も知っているのとでは、ぜんぜん違いますよ。「お医者さま」ではなく「お医者さん」と付き合うんです。

内藤 それは大事ですね。街角で会って「今日は元気?」って声を掛け合えるようなお医者さんがいいですね。

  街を歩いていて、内装の趣味がよくて感じのいい病院を見つけたら、ふらーっと中に入って「何かあったときにお願いします。何丁目何番地の永です」ってあいさつしておくんです。患者としてそれくらいのことをしなきゃだめ。何もしないでいい死に方はできません。努力をしないと。これは死に方の修行です。

内藤 大往生のためには修行が必要ですね。

  往生というのはね、「往(い)って死ぬ」のではなく、「往って生きる」こと。亡くなった後、西方浄土、つまりあの世に往って生きるのです。「成仏」という言葉もありますね。死ぬのではなくて、仏に成る。

内藤 死に方の話がでましたが、命が終わりに向かっていくのというのは、自分自身でわかると思うんです。患者さんの中にもそれまで「死ぬのが怖い」と言っていた人が、亡くなる2日前に急にお地蔵さんのような穏やかな表情になることがあります。

死もお産と同じです。「さあ、いよいよだぞ」という臨界期が自分の中でわかる。そうなると死は恐ろしいものではなくなると思うんです。残された時間を最期まで自分らしく生きるためには、やはり告知は必要だと思っています。

  僕は病気と加齢で忘れっぽくなってきています。人生であった出来事すべてを忘れるのが死です。だから、忘れたくないことがあったら、残る人に頼んでおかないといけないよね。戦争体験者はその体験を語っておくとか。

内藤 何を残して死んでいくのかを自分で見つけていくことは、人生の課題だと思いますね。体が動かなくなったら動かないなりに何ができるのか、人任せにせず元気なうちから考えておかないといけないとも思います。亡くなるまで自分の人生は自分の足で歩んでいくわけですから。おっしゃるとおり、修行です。

  自分には何を残して死ねるか。死に方を残すことは、生き方を残すことだと僕は思っていますよ。テレビやラジオの仕事はいろいろやってきたけれど、子どもや孫たちに人間はこうやって死ぬんだと、「死んでみせる」という仕事が僕には残っている。それがきっと僕にとって最後の大仕事になるんでしょうね。



永六輔(えい・ろくすけ)さん
1933(昭和8)年、東京・浅草生まれ。中学生のときにNHKラジオに投書して以来、ラジオを中心に作詞、テレビ、執筆、講演の仕事を続ける。主な出演番組にTBSラジオ「土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界」「永六輔の誰かとどこかで」。著書に『大往生』(岩波新書)、『男のおばあさん』(大和書房刊)など。2016年7月逝去、享年83。

内藤いづみ(ないとう・いづみ)さん
1956(昭和31)年、山梨県生まれ。ふじ内科クリニック院長。福島県立医大卒業後、東京女子医大などに勤務。86年からイギリスに渡り、プリンス・オブ・ウェールズ・ホスピスで研修を受け、95年、甲府市にふじ内科クリニックを設立。『笑顔で「さよなら」を 在宅ホスピス医の日記から』(KKベストセラーズ刊)、『死ぬときに後悔しない生き方』(総合法令出版刊)など著書多数。


構成=小林美香(ハルメク編集部)撮影=中西裕人 撮影協力=リーガロイヤルホテル東京

※雑誌「ハルメク」2019年9月号「あの人に学ぶ生き方・人間関係 お別れ作法」では永六輔さんが遺した名言をご紹介しています。
※雑誌「ハルメク」は定期購読誌です。書店ではお買い求めいただけません。詳しくは雑誌ハルメクのサイトをご確認ください。


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